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幼少期から青春時代まで。「僕の知らない母親」が住んできた街を、思い出とともに巡ってみた

自分が生まれる前の親の人生とは?身近な存在でありながら実は知らないことが多い親の人生。今回は嶋田さん親子に協力してもらい、母親が昔住んでいた街を訪問。それぞれの土地での思い出を共有してもらいました。

多くの人にとって最も身近な存在といえる親。しかし、自分が生まれる前の親の人生を詳しく知っている人は少ないように思う。たとえば、幼少期や青春時代。どんな街で、どんなことを考え、どんな人生を送っていたのか、みなさんはご存知だろうか?

そこで今回は、実際の母子に協力してもらい、母親がかつて住んでいた街を息子とともに訪問。母の子ども時代、初めての一人暮らし、結婚してから……それぞれの街での思い出を共有してもらうことにした。

■「仲良しだけど、昔のことはよく知らない」嶋田さん親子

今回、協力してもらったのは嶋田さん親子。こちらは母親の嶋田秀子さん(62歳)。現在は、生まれ育った千葉県旭市に住んでいるが、学生時代や新婚時代は違う場所で暮らしていたとのこと。

そして、こちらが息子の嶋田光宏さん(30歳)。光宏さんは現在実家を離れ、都内で一人暮らしをしている。

親子仲は良く、日頃から連絡は取り合っているというが、自分が生まれる前の母親のエピソードは「ほとんど知らない」と光宏さん。照れもあるのかもしれないが、やはり親の若い頃について会話をする機会は少ないのかもしれない。

それでは早速、秀子さんの思い出の街を巡っていこう。

■進学を機に上京。初めて親元を離れて暮らした「東京都墨田区(両国駅)」

はじめに巡るのは、東京都墨田区の両国から台東区の蔵前にかけてのエリア。地元の高校を卒業後、和裁の専門学校へと進学した秀子さん。当時、両国には祖父の弟さんが暮らしていたそうで、18歳だった秀子さんはその家に下宿し、2年ほど過ごしたそう。

……ちなみに本来であれば、ここから息子の光宏さんと一緒に歩いてもらう予定だったのだが、諸事情(光宏さんの寝坊)により、両国時代は筆者が息子代理として秀子さんの思い出を聞く。息子~、はやく来て~!

 

<お母さんの思い出の場所その1>通学で何度も渡った「厩橋(うまやばし)」

▲墨田区と台東区を結ぶ厩橋

秀子さん(以下、母)「厩橋は通学の帰り道、蔵前駅から自宅へ向かう時にいつも渡っていました。行きは両国駅を使っていたんですけど、帰りは蔵前駅を利用していたんですよ」

息子代理(筆者)「え、なんで?」(※息子なのでタメ口でいきます。息子じゃないけど)

母「学校が中野駅にあったので、本当は行きも帰りも総武線1本で行ける両国駅の方が便利なんですけど、学校帰りはいつも銀座に繰り出していたんです。当時から歌舞伎や宝塚にハマっていたので、銀座で趣味を楽しんで地下鉄で蔵前駅まで帰っていました」

息子代理「その頃から歌舞伎や宝塚が好きだったのかー。じゃあ、好きなものを見て厩橋を渡る時は、さぞ気分が良かったんだね、お、お母さん(息子役のテンションにまだ慣れていません)」

▲と、おもむろに指をさすお母さん。その先には…

母「あっLIONのビルだ、懐かしい! 当時からあったんですけど、あんなに綺麗だったかな。40年前となると、やっぱり記憶が曖昧ですね」

息子代理「大丈夫、歩きながら思い出していこう!」

母「でも、橋からの風景はまるで変わりましたねえ。当時は木造の家ばっかりだったのに、よくここまで高いビルやマンションが建ったなあ……。もちろんスカイツリーもなかったし、昔住んでいたとはいえ、別の街に感じられます」

そう言って、少し寂しそうな表情を見せる秀子さん。か、かあちゃん……。

 

<お母さんの思い出の場所その2>行きつけ?だった洋食屋「ライオン」

母「この高架下も懐かしいな~! 犬の散歩が日課だったので、雨の時はここを通って両国駅の方まで歩いたんですよ」

息子代理「そうなんだ。散歩中によく行った場所とかはある?」

母「家の近所に『ライオン』っていう洋食屋さんがあって、そこにはよく通った記憶がありますね。あれ、でもこの通りに面していたはずなんだけど‥‥…見当たらない。というか、当時このあたりにズラーっと並んでいたお店、ほとんどなくなっちゃってますね」

ちなみに、近所の人に聞き込みしたところ「ライオン」は15年ほど前にお店を畳まれたとのことだった。「残念……」と肩を落とす秀子さん。かあちゃん……。

息子代理「……思い入れの深い、大切な店だったんだね。何のメニューが好きだったの……?」

秀子さん「う〜ん、ハンバーグだったかな? トンカツだったかな? よく来ていたはずなんですけど、いかんせん記憶が……。もしかしたら、近所のラーメン屋さんの方が通っていたかも(笑)」

息子「思い入れ、意外と薄かった!」

 

<お母さんの思い出の場所その3>お気に入りの散歩スポット「横網町公園」

母「あと、家からも近かった横網町公園にはよく行きました。この荘厳な慰霊堂は当時からありましたね。春には綺麗な桜が咲くんですよ」

秀子さん「そうそう。横網町公園への散歩帰り、職務質問されたことを思い出しました(笑)」

息子代理「え!! 昔はそんなに怪しかったの?」

母「怪しかったんでしょうね。和裁の学校って宿題が多く、徹夜作業も珍しくなかったんです。それで、明け方頃に気分転換で散歩をしていたんですが、時間も時間だし、服装も当時では珍しいダメージジーンズを履いてた。徹夜明けの放心状態で、なおかつボロボロの格好してるんですから、そりゃ職質されるのも無理ないかなと」

これは、おそらく光宏さん(本当の息子)も知らなかった事実だろう。そりゃあ親だって多少やんちゃだった時代もあるだろうし、若さゆえの失敗もあったはずだ。

親として、そういうエピソードは我が子には隠したいものなのかもしれない。しかし、成人し、当時の親と年が近くなった子どもであれば、微笑ましく受け止められるような気がする。実際の息子が今ここにいないので、すべて憶測だけれども。

果たして息子は来るのだろうか? こうご期待!!

■天国と地獄を味わった新生活「千葉県千葉市美浜区(検見川浜駅)」

専門学校を卒業後、呉服屋に就職した秀子さん。24歳で結婚し、27歳の時に夫の仕事の都合で千葉県千葉市美浜区にある検見川浜へ引っ越した。

そして、31歳の時に3人目の子どもとなる光宏さんを出産。こうして、5人家族となった嶋田家の生活がスタートした。

というわけで、次は検見川浜へ向かうことにしたのだが、

ここで、リアル息子の光宏さんが合流(よかった……)。以降は、ニセ息子は引っ込み、実の親子の会話でお届けしていきます。

やってきたのはJR京葉線にある検見川浜駅。

母「あら〜駅前も綺麗になっちゃって。光宏は覚えている?」

光宏さん(リアル息子、以下息子)「俺が幼稚園まででしょ? 全く覚えてないね」

母「駅前にショッピングセンターなんてなかったな〜。私たちが引っ越してきた時はまだ京葉線も開通する前だったから」

息子「今でこそ駅前を中心に栄えているけど、当時は生活も不便だったんじゃない?」

母「不便だった。大きな買い物の時は、隣町のショッピングセンターまで自転車を漕いでたんだよ? あの頃もマンションや団地は多かったけど、ここまで賑やかになるとはな~」

息子「駅ができてから、一気に便利になったのかもね」

母「でも、光宏が通ってた駅前のプールはなくなっちゃったみたいだね」

息子「え? プールなんて通ってないよ、おれ」

母「通ってたよ!」

息子「通ってない!」

▲親子喧嘩が始まりそうだったので、おねえちゃんに電話で確認。結果、「通ってた」で決着しました

無事に和解したところで、お母さん思い出のスポットを巡っていこう。

 

<お母さんの思い出の場所その4>団地の子どもとハトが集った「真砂第三公園」

息子「うわぁ〜この場所は覚えているわ。ハトポッポ公園だよね、ここ?」

母「覚えてるんだ。ハトがたくさんいたからハトポッポ公園。なつかしいね~。団地の中にある公園で、小さいからマンションとか駐車場になっちゃってるかと思ったけど、残ってたんだね」

母「当時はもう仕事もやめていたから、毎日のように同じ団地のママ友たちとここに集まってたな~。ママ同士はみんな仲良しで、他にも色んなところで遊んだよ。子どもたちを学校に送り出したら、私たちはテニスをエンジョイ。夜になったら近くのカラオケに集合して。幕張のプリンスホテルのバイキングもよく行った」

息子「優雅! 検見川浜ライフをめちゃくちゃ堪能してるじゃん!」

母「楽しかったよ~。でも、光宏もハトと楽しそうに戯れてたよ」

息子「……」

▲ハトとポッキーが大好きだったという光宏さん。当時も今も光は苦手だそう

 

<お母さんの思い出の場所その5>丈夫で世話好きの息子が通った「こざくら第二幼稚園」

息子「当時の俺って、どんな子どもだったの?」

母「手がかからない子だったよ。体も丈夫で、全然泣かずによく寝てた」

息子「よく寝るのは今と変わらないね。今日も寝坊したし……」

母「それはどうかと思うけど、面倒見も良い子でね。幼稚園の頃は友達の世話もよくしてたみたいで、一度クレームが入ったこともあったわよ。うちの子にベタベタ触らないでって(笑)」

息子「そんな世話好きだったんだ(笑)。……全然覚えてない」

母「手間がかからない分、当時は助かったよ。じつは検見川浜時代の後半はバブルが崩壊してお父さんの仕事も打撃を受けたから、経済的にもしんどい時期があった。もちろんテニスやカラオケもお預けで、ストレスが溜まっていたんだよね(笑)。でも、三人の子育てで苦労することはあまりなくて、今思えば有難かったなって」

息子「そうだったんだ。記憶にはないけど、当時は家計が厳しかったって話は聞いたことがある……」

母「正直、天国から地獄だったよ(笑)。そのうち月4万円の家賃を払うのも厳しくなって、お母さんの実家がある旭市にみんなで引っ越したんだから」

■秀子さん生誕の地「千葉県旭市(倉橋駅)」

一家で秀子さんの実家へと移り住んだのは、光宏さんが5歳の時。以降、18歳まで過ごした千葉県旭市は、光宏さんにとっても地縁の深い場所だ。母子で共有する思い出も多い。

そこで、一気に時代をさかのぼり、秀子さんが幼少期の頃の旭市の思い出について振り返りながら歩いてみる。

▲実家の最寄駅、JR総武本線の倉橋駅

 

<お母さんの思い出の場所その6>幼い頃の夏の至福「とくざえもん」

母「とはいっても、60年も前のことだし本当にうっすらとした記憶しかなくて……。唯一覚えているのは『とくざえもん』っていう駄菓子屋だね」

▲約60年前、とくざえもんの店先で。一番左が秀子さん

母「親戚が集まると、子どもたちはもらったお小遣いを握りしめて、とくざえもんまで走ってね。夏に食べたかき氷が美味しかったなあ」

息子「昭和の夏休みって感じだね。映画みたいな風景が目に浮かぶ。でも、近所にそんな駄菓子屋があったことさえ、知らなかったな」

母「ゲームはもちろん、テレビもなかった時代だからね。遊びと言ったら木登りしたり、芋畑で追いかけっこしたり……」

息子「母さんにも子どもの頃があったんだよなあ。当たり前だけど、なんか不思議」

母「当時はどの家も食べていくために必死で、子どもに構うヒマがなかったみたい。だから、子供たちは外で勝手に遊んでたんだよ。ちなみに、私のお母さんとおばあちゃんは和裁の仕事で忙しかった。だから私も和裁の専門学校に通おうと思ったんだけどね」

 

<お母さんの思い出の場所その7>唯一の遊び場所だった「雷神社」

母「それから、近所の『雷神社』っていう場所でもよく遊んでたよ。境内にブランコや相撲場があって、たまに宮司さんが絵本の読み聞かせをしてくれたりしてね」

息子「へえ、俺も雷神社では遊んでいたけど、ブランコや相撲場はなかったな〜。同じ場所でも全然遊び方が違う」

▲現在の宮司さんに当時の話を聞く母と息子

母「雷神社の子ども会で飯盒炊飯もやりましたよね? 懐かしいな〜」

息子「いいな〜。俺の子ども会の思い出といったら、夏祭りに向けてひたすら笛の練習をしたこと。俺も飯盒炊飯がよかったわ~」

母「そうそう。笛、がんばってたよね~。ちなみに夏祭りは、お母さんが子どもの頃から盛んだったんだよ」

と、地元の思い出話で盛り上がる母子。いや、親子というよりも、時代は違えど同じ場所で育った友人のような目線で、いつしかしゃべり始めている――。二人の間には、そんな空気が流れているような気がした。

▲神輿を神社へと担ぎ込んでいく様子

▲現在も神輿は大切に保管されている

■親子で思い出の地を巡ってみて……

というわけで、お母さんゆかりの地を、親子で巡った今回の試み。最後に、二人に感想を聞いてみよう。

秀子さん「とても面白かったです。両国では街の変化に唖然し、検見川浜では『はとぽっぽ公園』が残っていることに感激し、地元の旭では忘れかけていた思い出に出会うことができましたから。それに、息子に改まって幼少期や青春時代の話をする機会もなかなかありませんからね。良い思い出が、また1つ増えました」

一方、息子である光宏さんは、どう感じたのだろうか?

「今まで昔の話は聞いてたかもしれませんが、やっぱり覚えてなかったんですよね。というのも、現在の場所に過去の話を持ち出されても正直、イメージって湧かないじゃないですか?でも、実際に足を運んで、一緒に巡ることで昔の話でもリアルに実感することができました。“こんな体験してたんだ”とか“こういうのが好きだったんだ”とか、時代は違えど、ちゃんと若い頃は楽しんでいたんだなって。この歳になって、また新たな母親を知ることができて楽しかったです」

身近な存在である親。しかし、子どもが知っているのはあくまで「親」としての側面に過ぎず、その人生そのものついては、あまり分かっていないのかもしれない。とはいえ、改まって話すのは照れくさい。そんな時は、親子でゆかりの街を歩いてみてはどうだろうか?

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